テレビの「わかりやすい解説」は、時に真実を切り取る道具になる。池上彰氏の天安門事件をめぐる説明が、その典型だ。
彼はこう語る。天安門広場の中では一人も殺されていなかったことが後にわかった、学生リーダーが軍と密かに交渉し、逃げ道を確保してもらった――と。これを聞けば、人民解放軍は意外と親切な組織に聞こえてくる。しかし、これは歴史の本質を意図的にずらした語り方だ。
1989年6月4日、民主化を求めた市民と学生に対し、中国共産党は武力で弾圧した。広場内部での大規模殺戮の有無については証言に相違があるのは事実だ。だが、問題の核心はそこではない。広場に通じる長安街や木樨地周辺などで、軍の銃撃によって多数の市民が命を奪われたことは、動かしがたい歴史的事実である。地理のクイズのように「広場の中か外か」を強調する言説は、国家権力が国民に銃口を向けたという事実そのものをぼやかす。
確認されていないことを「確認済み」のように断定し、周辺の流血を十分に語らない。その結果、視聴者には「軍が学生を安全に避難させた」かのような印象が残る。わかりやすさを売りにする解説者が、言葉のマジックショーを演じるとき、それは単なる不正確さではなく、特定の権力に都合の良い物語の再生産になる。
メディアはしばしば「中立」を装いながら、都合の良い部分だけを切り取り、都合の悪い部分を背景に追いやる。天安門事件の犠牲者の存在を薄め、中国共産党の公式見解に近いニュアンスを滲ませる語りは、まさにその一例だ。歴史解説が誰のためのものなのか――犠牲になった人々のためか、それとも権力の物語を補強するためか。問い直さなければならない。
嘘をつくな、と言いたい。まして、確認できないことを事実のように語るのは、もっと許されない。テレビの解説が「正しい歴史」として流布されるとき、私たちは常に批判的な目を持つ必要がある。都合の良い部分だけを切り取った歴史は、もはや歴史ではない。プロパガンダの一種だ。