宮古市の片隅、とあるアパートの一室。朝もやの中、ごく普通のサラリーマンである伊藤が玄関のドアを開けると、そこにはとんでもない光景が広がっていた。
「あれ、俺の自転車…?」
そこに立っていたのは、確かに伊藤のママチャリだ。しかし、上半身にあたるカゴの部分には、やけに生々しい筋肉隆々の「腕枕」がどっしりと鎮座している。それは、まるで筋肉質な大男が体育座りをしているかのようだ。いや、上半身が筋肉の塊と化した自転車、と表現するのが正しいだろう。それが、まさかあの賢者ケイローン(いて座の半身半馬)だとは、この時の伊藤は知る由もなかった。
「うわあああああああああ!」
伊藤の悲鳴に、ケイローン自転車はビクッと体を震わせた。腕枕の部分がプルプルと震え、ペダルの部分がガクンと揺れる。
「い、いとう…か? む、むねがきゅうくつだ…」
低い、くぐもった声が聞こえた。どうやらこの腕枕、喋るらしい。伊藤は絶叫した。この声は、ギリシア神話の賢者ケイローンだという。ゼウスの気まぐれな魔法で、現代日本のママチャリと一体化してしまったのだという。
「い、伊藤! わ、わが脚はどこだ!?」
ケイローンの訴えに、伊藤はため息をつきながら答えた。
「これがあなたの脚です…ペダルを漕いでください」
ケイローンは腕枕を揺らし、どうにかしてバランスを取ろうとするが、いかんせん上半身が重い。筋肉の塊が風でゆらゆら揺れ、自転車はまともに進まない。
「うおおお! このままでは遅刻してしまう! いや、遅刻とはなんだ!?」
「遅刻は遅れることです! とにかく漕いでください!」
「だが、この馬鹿げた乗り物はまっすぐ進まん!」
伊藤は半泣きになりながら、腕枕の腕の部分を掴んでハンドルを操作する。腕の部分は柔らかく、しかも筋肉の塊なので、掴む場所を間違えるとプルプルと震えて力が伝わりにくい。そのせいで自転車は蛇行運転を繰り返し、道行く人々が奇妙な視線を向けてくる。
「何だあの自転車…」
「え、マッチョな腕枕がついてる…?」
伊藤の肩には近所の小学生から投げかけられた「マッチョ自転車だ!」という歓声が突き刺さる。その視線に耐えかね、伊藤は必死に漕ぎ続けた。
会社に着くと、伊藤はひどく疲弊していた。ケイローン自転車も、腕枕の部分がぐったりと垂れ下がっている。
「伊藤くん、その自転車、一体どうしたの?」
隣の席のOL、佐藤が不思議そうに尋ねる。伊藤は正直に話すべきか迷い、とりあえずごまかそうと試みた。
「あ、これですか…最新型の…ちょっと変わった自転車なんです」
「へえ、いいなー。もしかして、それって有名なアレじゃない?」
「え?」
佐藤は腕枕の部分を撫でながら、目を輝かせた。
「これ、めっちゃいいニオイする! もしかして、めっちゃいい香りする腕枕として有名な、あのギリシャ神話の賢者ケイローンモチーフのやつじゃないですか? SNSでバズってるんですよ!」
その言葉に、伊藤は思わず絶句した。
「ああ、そうですね、はい、そうです」
伊藤の返事に、ケイローンは腕枕の口から微かに「ば、ばかげている…」と囁いた。
こうして、現代日本に降臨した賢者ケイローンは、今日もマッチョな腕枕として、伊藤のママチャリライフにドタバタと波乱を巻き起こしていくのだった。
Special Thanks: マッチョ自転車の作者・カズミ先生(カズミスタジオ)
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